【歴史】
お寺の創建は古く、文保元年(1317)下総の国(今の千葉県)の地頭であった千葉胤貞公が、幕府の代官として九州探題の職を任命された時、
中山法華経寺の三代目の住職であった日祐上人に、この大役が無事に果たせるように、祈願をお願いされましたところ、仏天のご加護により、
何事もなく過ぎました。その功績により胤貞公は幕府より肥前の国を賜りました。胤貞公は日祐上人に感謝し、現在地にお寺を建立し、
上人を開山(初代の住職)としました。その後、千葉家の篤い信仰によりお寺は守られ、十三代までは法華経寺の住職が光勝寺の住職を兼ねておりました。

十四代目になって初めて専任の住職を置くことになり、法華経寺からおいでになったのが日親上人です。日親上人は大変激しい布教を展開され、
多くの迫害を受けられましたが、屈すること無く、松尾山周辺はもとより九州各地で日蓮大聖人の教えを弘められました。

【本堂と勅額】
慶長年中、十八代目の日乗上人の時、鍋島直茂公が、当時のお堂が非常に古くなり、いたんだのを嘆かれ、総欅造り十間四面で、極彩色のお堂を寄進されたのが現在の本堂です。

十九代目の日億上人は極めて高徳の方でしたので、後水尾天皇が深く帰依され、「護国光勝寺」なる勅額を拝領すると共に勅願寺の指定も受けました。

【祖師像】
本堂正面におまつりされております日蓮大聖人のお像は鎌倉末期に造られ九州では最初のお像で、
開運栄昌を司る除災延命の「満願高祖大菩薩」として、多くの人々の信仰を集めています。又、
右側のご宮殿内にも祖師像がおまつりされていますが、この祖師像は昔、千葉城におまつりされており、
領内に異変があるとお経の声が聞こえてきてその都度、千葉胤貞公が難を免れられたことから「読経のお祖師さま」として知られています。

【親師堂】
本堂左手の、日親上人がおまつりされていますお堂は、鍋島の一族、石井氏に依って寄進されたもので、すべて楠で造られており、建築上貴重なお堂です。

その他にも、鬼子母神堂、清正公堂など多くのお堂があり、お参りの方が絶えることは有りません。

県内日蓮宗の寺院の中にあってまず最初にお参りをして頂きたいお寺です。

【鍋かむり日親】

松尾山中興の祖・久遠成院日親上人の御生涯を紹介します。

日親上人は、応永十四年(一四〇七)に、上総国埴谷(千葉県山武市埴谷)の、埴谷氏一族にお生まれになり、
埴谷氏が信仰していた中山法華経寺(千葉県市川市)の日英上人の弟子となられました。

応永三四年に中山をたって上洛され、伝道活動の第一歩として一乗戻橋のたもとで説法されました。

やがて「九州の導師」として、肥前国小城郡松尾(佐賀県小城市)の光勝寺へ下向され、ここで教団の指導にあたられました。
それまでの光勝寺は中山法華経寺と両山一主制(兼任)でしたが、初めて専任の住職として日親上人が迎えられたのです。

ところが、日親上人は厳格な日蓮宗の信仰を主張され、領主の千葉一族を厳しく批判されたために、永享九年(一四三七)ついに破門されて光勝寺を去り、再び上洛されました。

佐賀県内には光勝寺をはじめ、日親上人により開かれた寺院、他宗より改宗された寺院や、霊跡が数多くあります。

その翌年、将軍足利義教に対して、日蓮聖人の教えを信奉し他宗の信仰を捨てることを直訴されましたが、まったく顧みられませんでした。
そこで再び諫暁を試みようとして『立正治国論』を著され、これを浄書しているうちに捕われて牢に入れられました。
牢の中で日親上人はいろいろと厳しい刑罰を加えられましたが、その翌年に将軍が謀殺されたので、特別の恩赦によって出獄されました。

この後、日親上人は、京都に本法寺を建立されてここを本拠とし、全国各地を廻って伝道につとめられました。
ところが日親上人の主張は日蓮聖人の教えを守ることを厳しく要求し、他宗を激しく攻撃するものでしたから、
行く先々で迫害を受けられました。熱く焼けた鍋を頭にかぶせられても信念を貫いたといわれ、「鍋冠日親」と呼ばれるようになりました。

幕府はこのような伝道活動を続ける日親上人を罰し、寛正三年(一四六二)、再び牢に入れられましたが、
その翌年八月には臨時の大赦が行なわれて、自由の身となられました。

これより日親上人は、自らの伝道の旅に赴かれることは少なく、京都本法寺を本拠に教団の整備を積極的に進められました。

八二歳になられた長享二年(一四八八)九月、日親上人は病にかかられ、伝道と法難の生涯を終えられました。